【6】
どこかに連れて行け…とカイに言われはしたものの、ハジには適当な行き先が思い浮かばなかった。小夜に聞いてみればと思ってはみたものの、つい先日目覚めたばかりの小夜は、様変わりしている街の様子に目を白黒させるばかりのようで、その手段もハジはあっさり断念した。
それならばとハジが向かった先はあの海岸だった。
20年眠り姫と化していた小夜でもこの海岸のことは鮮明に覚えていた。それほどここはあの頃と何一つ変わってはいなかった。海面を真っ赤に燃やしながら海へと姿を消してゆく夕日も、幾重にも重なる雲を刻一刻と無数の色に染め変えてゆく西空も、何もかもあの頃のまま。だからなのだろう…不意に寂寥感に心を占拠された。
― ここでいろんなことがあったね。おとうさんと初めて海を見たのも、カイがハジに投げ飛ばされたものココ。あの楽しかった最後の日曜日、カイとリクと香里と…バーベキューをしたのもココ。
楽しかったこと、哀しかったこと、小夜の沖縄での思い出の大半ががこの浜辺に眠っているといっても間違いではない。
今は亡き父や弟のことを思い浮かべ、あっという間に瞼が熱くなっていた。どんな小夜でも見逃すはずのないハジが、その指先で流れおちる寸前の涙をゆっくりと拭ってくれた。するとどういうわけか胸の奥の悲しみもすっと消えてゆく。そして代わりにその頬に浮かぶのは、はにかんだ照れ笑い。
「小夜…。」
ハジはこの場所へ小夜を連れてきたことを俄に後悔していたが、それでも…ほかにはやはり思いつかなかった。沖縄でのすべての始まりとも思えるこの海岸。それがこの場を選んだ、理由。。
ハジと二人、防波堤に腰をおろして、夕日と海と空と雲の織りなす幻想的なショーをただぼんやりと眺めていた。
以前はあまり意識したことがなかったけれど、こうして平和という穏やかな日常を手に入れてからというもの、小夜は、ハジと二人きりでいると妙に意識してしまう自分に気がついていた。だからこそハジと二人きりになることが滅多にないOMOROというあの空間は居心地が良いのかもしれない。かといってハジのことが嫌いなわけなどなく…それどころか二人並んで座るその肩先のわずかな隙間さえももどかしくて…。
“ハジのことが好き”と自分ではっきりと自覚してはいてもそれを素直に表せるほど小夜は大人でもなくて、苛立ちは募るばかりで時にしてその手に余る感情の刃は、あろうことか罪もないハジへと向かう。けれど…ハジは…。
「…小夜、あの最後の戦いの日の私の言葉、今もまだ覚えていますか?」
ハジは最後の残照ばかりとなりつつある西の空に瞳を向けたまま、ゆっくりと小夜に問うた。
「…う、うん。」
それは小夜にはあまりにも突然の問いだった。沈黙を破るハジの台詞にうろたえながらも、かろうじて何とか一言応える。
「…そう、ですか。…小夜、もう忘れてくださって構わないのですよ。私は、あの言葉で貴女を縛り付けてしまった。迷惑だったのではありませんか?だから…もう、きれいに忘れて…」
「そっ、そんなっ。」
ハジの言葉は小夜の強烈な拒絶の言葉によって遮られた。
「ど、どうしてそんなこと言うの?」
顔を真っ赤に染めながら猛烈な怒りを身に纏い、ハジを凝視する。
「私がいつ、いつハジのこと迷惑だって言った!!」
小夜の瞳から涙がぽろぽろと零れる。零れる滴を自分の手の甲で乱暴に拭いながら、ハジを睨みつけたまま
「そんなこと言うハジこそ、もう私のことなんてなんとも思ってないんじゃないの?私のお守りをするのが嫌になったんじゃないの?」
「小夜!!それは違います。私は今でもあなたのことを…。」
「じゃあ、なんでそんなひどいこと言うの?そんな…ハジ…いなくなっちゃう…みたい…じゃない。そんなの…やだよ。ハジがそばにいてくれないと…わ、私…。」
ハジは、顔をくしゃくしゃにしながら泣いている小夜をじっと見つめていた。
― 本当は…泣かせたくなど、ない。泣き顔など見たくない。けれど、泣き顔だからこそ聞ける、貴女の心がある。私はそれが聴きたい。そのために彼女を試すような真似をしてわざと流させたその涙を、今しっかりとこの胸に、この心に焼き付けよう。
「小夜…私は貴女の心が知りたい。その心が私の望むものであるなら、私はもう二度とあなたを泣かせたりしないと、今ここで誓います。だから…。」
もう強がりも誤魔化しもこの人には通用しない。簡単なことなのに…ただ素直にあなたが好き、と言えばそれでいいのに、どうしてこうも躊躇してしまうのか。でも今は、今日くらいは素直にならなくては…小夜は心を決めた。
「…ハジは、私の笑顔が欲しいと言った、よね。でもハジの笑顔を奪ってしまったのは、…私、なんだよね。」
二度と帰らない日々を思い返すように小夜は呟いた。
もう二度とハジを失いたくない、そのために何をどう伝えたらいいのか?
「私だって、ハジに笑って欲しかった。動物園にいた頃のように笑っていて欲しかった。…私、勝手だよね。自分の罪ばかり意識しすぎて、本当に大切なあなたのこと見失ってた。私はたくさん罪を犯してきたけれど、これ以上の罪はないと、思う。あの時、あなたが崖から落ちたあの時…私、怖かった。また一人ぼっちになるのかと思って、ものすごく…怖かった。あなたが瓦礫に消えていったあの瞬間を思い出してもそう、今でも…身体が…震える…の。怖くて…たまらないの。でも私、あの事故がなくても、きっとあなたに血をあげてた。…あなたが私を置いて年老いてゆくことなんて耐えられなかった。」
ハジは両の腕で小夜を抱きしめたまま、黙って話を聞いていた。
「ある人が私に語ってくれました。“女王は己が望まぬものには、決して血を与えはしない。血を与える行為は、女王の最高の愛情表現である”と。その言葉が真実であるなら、私のことを…。」
「そうだよ!!」
小夜はまたも物凄い剣幕でハジの言葉を遮った。そして、身を捩りハジの胸から身体を放すと、恥ずかしさを悟られないようにクルっと背中を向けて俯きながら告げた。
「そうだよ。わ、私、いつだってハジを失うことが、どんな事より怖かった。ハジはいつもそばにいてくれて、なのに私、ありがとうの一言も言えなくて。それに…たくさん傷つけて…いつだって謝りたかったのに、ゴメンの一言さえも言えなくて…こんな私だからいつかハジに愛想尽かされちゃうんじゃないかって、いつもいつも怖かった。私、ハジにはずっとそばにいてほしい。ずっと一緒にいてほしいって思ってる。私の隣にいて手を繋いでいて欲しい。ありがとうもごめんなさいも言えないくせに…こんな…。」
「小夜っ。」
ハジは思わず小さな背中を後ろから包み込むように抱きしめて、その耳元に囁いた。
「貴女を二度と独りにはしません。私はそのためにあの瓦礫の中から蘇ってきたのです。」
甘いハジの声音はまるで意思をもった呪文のように小夜の心にじんわりと溶けていく。小夜の心を覆う固い鎧さえも溶かして小夜から躊躇いも照れも剥ぎ取ってゆく。
ハジの腕の中で体を反転させ、ハジに向き直る。
― 小夜、さぁ落ち着いて。今よ、今しかないのよ。
そう自分に言い聞かせる。胸の鼓動が早鐘を打つように忙しなくて、ひとつ息を大きく吸って、それからゆっくりと吐き出して…。
「でも一緒にいたらまたハジを傷つけてしまうかもしれない。そう思うと怖くてたまらないのに、それでもハジと一緒にいたいっていう気持ち、抑えられない。」
ハジを見つめる瞳からひときわ透き通った涙が一滴零れ落ちた。それは小夜の心を覆っていた最後の鎧が今、剥がれおちた瞬間。
「…ハジ、私、あなたを…あなたを愛しています。」
言葉尻はきっと涙で震えていただろう。一番伝えたかった言葉。今ようやく伝えられたこの想い。
「ようやく…言わせることが…できました。あの極寒の地で私が言った言葉を覚えていますか?随分時間がかかってしまいました…でも、貴女は…私を愛している…と、言ってくれた。私の想い…ようやく…今…。」
言い終わらぬうちにハジは小夜を抱きしめ、大きな体を屈めてその華奢な肩口に額を寄せていた。
遠い昔、幼い自分に与えてくれた安らぎを確かめたかった。あの日の小夜と今ここにいる小夜が別人ではないことを祈って。
背を優しく上下する小夜の掌の感触が温かくハジの心を満たす。あの日の温もりは、今この腕の中の小夜の中にも確かに存在した。それが無性に嬉しかった。
ハジの黒髪が潮風に靡いて小夜の頬を擽っている。小夜はその両手でハジの頬を優しく包み、下から見上げるように薄青の双眸を見つめた。きれいな滴が弧を描いて流れおちてゆく。いつもハジがそうしてくれたのを思い出し真似て、小夜はその涙を細い指で優しく拭う。
そのまま頬を引きよせ唇を重ねる。あの日オペラハウスと同じ、また小夜からの口付けだった。
「小夜、私の…愛しい小夜。」
熱い吐息で甘く囁くように名を呼び、髪を撫で、華奢な肩と折れそうに細い腰を抱き寄せて。やっと手に入れることができた、何より大切な己の命よりも大切な至宝、小夜。その彼女の瞳には、喜びに震える己の顔が映っている。
ハジは、もうこれ以上望むべくもないほどの幸せを感じていた。
己の感情を封印してきたのは、忠実なシュバリエであろうとしたため。それを不幸と思ったことなどなく、そうしなければ心はとうの昔に壊れていたことだろう。傍らにいて彼女を護る力を与えられたことが嬉しくて。けれど死を覚悟したあの絶望の中、守ってきたはずの彼女に守られていることに気づいた。そして知った、心の奥底に眠る、望み。小夜を思う時が永すぎて考えすぎて遠回りばかりしていたけれど…
― 私は、貴女に愛されたかった、ただそれだけ…。
永い時を経た今、彼女は、自分を愛している、と言ってくれた。傍にいてほしいと望んでくれた。
そして見たくてたまらなかった笑顔は、これからの未来を明るく照らしてくれることだろう。
これ以上を望めば、おそらく天罰が下るだろう。
流浪の民に生まれ落ち運命に抗う術も持たず、己の意思も持つことも許されずただ流されるように売られて、
そして小夜と出会い、小夜に恋して…シュバリエとして新たな生を小夜から与えられた。
波乱に満ちた過去を改めて振り返ると、すべてが今日この日のための布石で会ったような気さえする。
「カイが心配しているでしょう。そろそろ帰りましょうか。」
ハジの声に小夜は我に返った。目の前には、少しいつもの無表情を崩した柔らかな笑みがある。
これからはこの人と生きてゆく。違う。きっとこの人とだから生きていける。
他人には冷たく見える蒼い瞳も薄い唇も、私の前では全く別なものに変わる。儚いほど優しい微笑みも耳元で囁かれる甘い言葉も一つ残らず私しか知らない、私だけの大切な宝物。ハジのすべてが愛しくて、この先蒼い瞳に映るのが私一人であったらどれほど幸せなことだろうと思う。想いが通じ合った今、欲は果てしなく膨らんでゆく。
「そうだね、帰ろう。」
言葉とともに差し出された小さな手。ハジは、指を絡ませるようにして繋いだ。
合わせた掌と絡めた指先から伝わる温もりは、初めて出会ってから今日まで彼女に紡いだ幾多の言葉よりも、遥かに雄弁に想いを伝えてくれるだろう。
いつのまにか二人を包むのは、空から舞い降りる深い青。
帰ろうとは言ってみたものの、ようやく得た二人きりの時を惜しむ気持ちを抑えきれなくて、いつになくゆっくりとした歩調で帰路を辿る。OMOROに帰ればまた、二人、離れ離れになる。明日になればまた会えるとわかっていても、せっかく繋いだこの手を放すことは、今は何より辛い。だから…。
「小夜、私と一緒に暮らしませんか?貴女さえよければ…カイにお願いしてみますけど。」
大きな赤茶の瞳を殊更大きく見開いて、小夜はハジを見つめた。ハジの言葉の意味が理解できたのだろう。うっすらと紅く染まった頬を隠すように、それでもハジにちゃんと伝わるようにゆっくりと頷き返した。その可愛らしい仕草に、今ここで小夜のすべてを奪ってしまいたい衝動に駆られるけれど…。
自然とOMOROに向かう足取りは先程とは明らかに違う。心が急くままに、歩調は大きく早くなっていった。
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……果てさて、OMOROでは。
二人仲良く帰ってきた様子、特に小夜の幸せに溢れた笑顔を見て、カイは心底安堵の表情を浮かべた。が、“小夜と暮らしたい”というハジの申し出には、不快な思いを隠せなかった。けれどカイは、その申し出を渋い顔をしながらも了承した。目の前でいちゃつかれるよりはマシ、と思ったからではあるが、それでも肩を寄せ合うようにしてハジの部屋へと向かう二人の後ろ姿を見ていたらなぜか瞼に涙が浮かんで、やがて一筋の滴が弧を描くように頬を滑った。涙の理由は当の本人にも分からなかったが、そんなカイの様子をじっと見ていた香里は、カイの身体を優しく抱きしめた。
香里だけがカイの涙の理由を知っていた。
そう、それはついには実ることがなかったカイの甘く切ない初恋が終わった瞬間。
そしてその夜…ハジの部屋の明かりは、夜も更けぬうちに消えた。
200年近い時を経て漸く結ばれた二人を祝福するように、空では満天の星が夜通し瞬いていた。
やっとこさ、終わりました。意外と時間かかりました、ね。
ただの確認作業のはずが、次から次へとあちこち見直し…。
いかに自信がないか…トホホです。
でもラストは、初めて書き上げたときから全く変わってません。
こんなエンディングだったらいいのに…っていう気持ちを表れです。
駄文にお付き合いくださいましたこと、心より感謝いたします。