【5】




「ふあ〜ぁ。」
大きな口を開けてひとつ欠伸をした。窓から見える空は、彼の瞳に似て少しだけ薄い青。穏やかな時間が自分をも巻き込んで静かにゆっくりと流れていく。
窓際のベッドに腰掛け、膝小僧に頬づえをついて窓の外を眺めていた小夜は、すくっと起き上がるとそのままベッドに背中からダイブした。スプリングが軋む音さえ心地いい。仰向けに寝転んだ瞳に映るのは、20年たっても変わらない自室の天井。カイの優しさはこんなところによく表れている。いつ目覚めるのかも分からない妹のため、あの頃小夜が使っていた部屋はそのままの姿で残しておいてくれた。
ハジは海沿いのこじんまりとした一軒家をジョエルから宛がわれ、ほぼ毎日OMOROへと通っていた。

階下ではランチタイムもオーダーストップになろうという時間なのに、客足が途絶えることはなく、ひっきりなしに動く人の気配がする。香里が言っていたように、店の経営は好調らしい。きっと猫の手も借りたいくらい忙しいはずだ。目覚めた晩のカイの業務命令さえも実行できないほどの大繁盛ぶりで、ハジは今日もOMORO従業員に徹している。
私もカイの役に立ちたい。…けれどその気持ちをぐっと堪えた。OMOROの常連客の中には20年前の小夜を見知っている者もいる。一応小夜は、カイの妹の子として紹介されてはいるものの、その妹と酷似した容貌(同一人物なのだから当然である…)によからぬ詮索をされたり怪しまれたり…好奇の目で見られるようなことは、遠慮したい、という気持ちがあって…。
― でもちょっとだけ気になることがあるんだよね。
今も店に降りていこうかどうか、部屋にひとつだけある椅子の背に無造作に掛けられたお気に入りの薄いピンクのエプロンに手が伸びたり引っ込んだり…ものすごい葛藤が小夜の心の中で繰り広げられている。
― 香里、ハジ目当ての若い女性客がいるって言ってたけど…。ハジ、どんな顔して店に出てるんだろ。
いや、ホントはちょっとだけじゃなくて、ものすご〜く気になって仕方ない、というのが乙女心。
― あの日、ハジ、私のこと、愛してるって言ってくれた…よね。
なのに目覚めてからもう1ヶ月ほど経つというのに、ハジとは何の進展もないまま過ごしてきた。あからさまなシュバリエとしての態度はなりを潜めたものの、その代わり動物園にいたころみたいにまるで保護者然として甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。それは嬉しくもあり、恥ずかしくもあり…何も知らずにいたあのころに戻った気がして。そしてそんな自分を見つめる蒼い瞳は、いつも優しく笑っていて…。ディーヴァのことを思えば、今も胸の奥に鋭い刃物で抉られたような痛みが奔るけれど、双子たちが残していった気持ちにも応えたい。そして、カイが、香里が、誰よりハジが自分の笑顔を望んでいるから。
― 一体カイの業務命令、いつになったら実現するの?そりゃあOMOROが繁盛してるのはものすごく嬉しいけど…。ねぇハジ、どうして何も言ってくれないの?私まだ、あなたに何も応えてないよ。数え切れないほどのごめんなさいも、同じくらいのありがとうも、それから一番伝えたい大切な言葉、胸の奥に大切にしまってある…。

昼の営業時間が終わり、ハジは店の入り口の営業中の札を準備中へと裏返した。厨房ではカイと香里がいつものように手際よく賄いにとりかかっていた。ほどなくして出来た遅い昼食。
「お〜い、小夜!!飯だぞ。降りて来いよ。早く来ないとみんな食っちまうぞ!
そんな威勢の良い呼び声が2階の小夜に向けて掛けられた。
途端バタバタと階段を駆け降りる足音。
小夜とカイと香里と。三人で囲む円卓。計ったかのように同時に響く「いただきま〜す。」の声。
食事の必要のないハジはいそいそとお茶を入れたりと、相変わらず気配りに余念がない。小夜は食事の手を休めることなくそんなハジの姿をずっと目で追っていた。その視線がよほど突き刺さったのか、ハジは
「小夜、私に何か?」
無意識に、しかもかなり不躾に見つめていたのだろう…ハジの声はいつもより幾分低く感じられた。小夜は慌てふためいて、それでも何とか冷静を装って何とか答えた。
「う、ううん。何でもないの。き、気にしないで。…それよりハジ、もういいから座って。落ち着いて食べられないよ。」
ハジは、そうですね、と小さく頷くと、小夜のすぐ隣に腰かけた。
カイと香里はそんな二人の様子を片目でチラチラ見ながら、黙々と箸を動かしている。
なんとも形容のし難い気まずい雰囲気がその場をじんわりと満たす。堪え切れなかったのは、やはりカイだった。
「なあハジ、この前の業務命令だけど、今日はもうこれでいいから、小夜が飯食い終わったら、二人で出掛けてこいや。今日は平日だから常連のオヤジくらいしか来ないだろうしよ、香里と二人でも何とかなるさ。」
「えっ、いいの、カイ。」
いち早く応えたのは、ハジではなくて小夜のほうだった。実を云うとこのところ外へ出かけることもなくて、退屈していたのだ。
「あぁ、店のことは気にせず行って来い。なぁ小夜、ずいぶん待たせちまって…悪かったな。」
カイの言葉に笑顔で首を横に振ると、小夜は昼食の残りを勢いよく掻き込んだ。ちょっと咽そうになったところでタイミングよく、ハジがグラスの水を差しだしてくれたので、口の中のものと一緒に一気に流し込む。そして最後の一口を特大サイズに開いた口に放り込むと、
「ごちそうさまでした!!ハジ、着替えてくるから少し待っててね。」
と言って慌ただしく2階へと上がっていった。
「あぁーあ、ファッションショーの始まりだね。日が暮れる前に終わればいいんだけど…」
香里は、仕方ないなぁ…と言いながらも嬉しそうに小夜の後に続いて階段を駆け上がってゆく。たちまち喧しい声が上がる。どうやら本当にファッションショーが始まったらしい。階下に残された男たちが苦笑いを浮かべたのはそのすぐ後のことだ。

小夜の支度が終わるのを待ちながら、カイはハジと二人、何をするでもなくただぼんやりしていた。壁に張り付けてある家族の肖像が目に飛び込んできた。父と弟と小夜と自分。瞬時に頭の中に二度と帰らない日々が蘇る。
― 思えばあの頃、俺はこの男が大嫌いだった。
それが今では、こうして二人で同じ空間にいて同じ空気を吸い同じ流れの時間の中に身を置いて、それが自然なことと捉えられる自分がいる。己の進歩に苦笑いを禁じえない。
あの日遠い異国の地で大嫌いだった男の哀れな胸の内を聴いた。ハジという一人の男を理解するのにそれ以上分かりやすい方法も言葉もなかっただろう。そして胸の奥深くにあった蟠りは、すっと影一つ残さず音もなく消えた。だからこんな台詞も言えるのだろうか…。溜息が一つ口から零れた。
「なぁハジ、そろそろ踏ん切りつけろよ。いつまでもこのままで、なんてことお前考えちゃいねぇよな。お前の幸せはそのまんま小夜の幸せなんだ、分かってるか?」
薄青の瞳が僅かに細められ、口角が心持ち上がる。それはよほど彼のことを見知った人でなければ分からないほどのほんの微かな変化ではあるけれど、今のカイならばその表情は読み取れる。
「…そうですね。」
ハジの答えはたったそれだけだったけれど、それだけで彼が何を言わんとしているのか手に取るように理解できるから、カイは十分満足した。またも静寂が二人の男を覆う。でも今度は、その静寂がひどく心地よい。
しばらくして階段をけたたましく降りてくる足音が二人の静寂を破った。
「ハジ、お待たせ!!」
そう言って勢いよく現れた少女の姿を見て、ハジは少しだけ気恥ずかしそうに、そして溢れ出る幸福感を隠そうともせず、ふうわりと優しく笑った。


ちょっと小夜のキャラが違うような…。気にしないで、どうかスルーしてください。
あまり深い突込みとかにはとことん弱いので、ご勘弁を。
私、カイ、嫌いなはずなんだけど…彼無くしてはハジと小夜の幸せはあり得ないと。
それにしても、カイ、出過ぎですね。

駄文にお付き合いくださいましたこと、心より感謝いたします。