【2】



2/14、バレンタイン当日。
ハジは、所属するフィル主催のバレンタインコンサートのリハーサルのため、朝早くから出かけていた。ハジの所属するフィルは、ただ音楽好きなものたちが集まった愛好会みたいなものではあったが、小さなホールを借り切って行われる、四季折々に趣向を変えて催されるコンサートは大変好評を博していた。中でも結構イケ面揃いのメンバーが各公演ごとに交代で演奏するソロが、人気の呼び物になっていた。特に今日の公演ではメンバーの中でも特に人気の、ハジのソロがあるということもあって、チケットも前売りの段階で既に完売になっていた。
コンサートは午後6時開演。

― 開演の前に楽屋に寄ってハジに頑張ってって声かけて。それで公演が終わったら。そしたら…。あのチョコをハジにあげよう。

差し出すときのシュチュエーションもセリフも全部頭の中にある。手作りのための時間は、こんなことを考える時間へと変わった。既製品に頼ることもまんざら悪いことばかりではない、と小夜はほくそ笑んだ。

あの日購入したのは、まるで宝石箱のような木箱に詰められた数粒のチョコレート。一つ一つが手作りのそれは、まるで手作りとは思えないほどきれいな形で、小夜は、本当にはこんなのを作りたかったけれど結果はさんざんで…。だから手ずからハジのためのチョコを用意できない自分の代わりと言ってはなんだけれど、せめて作り手の心が伝わるようなものを贈りたいと思っていた。そんな折見つけたこの手作りチョコ。雑誌を見た瞬間に、これにしようと決めていた。ただ一つ落胆したのは、人気商品だったためか、小夜が求めたものよりチョコが多く詰められる大きな木箱は既に売り切れになっていたこと。
でも、たくさんあげたからと言ってハジが喜ぶわけでもない。だってハジは食べ物を口にしない。それに小夜があげたものなら拒むことなく、まるで蕩けるような笑顔を見せて食べてくれるのはわかってる。でもそれもきっと一粒だけ。あとは「小夜、どうぞ」と言って、ハジの長い指がチョコを摘まんで私の口に運んで、そして私の唇にハジのそれが重なって、私の口中で溶けたチョコをハジの熱い舌が舐めとって…。そして甘い時間が始まる。
その続きを想像して、小夜は全身を真っ赤にさせた。

― もう、昼間っから私ってば、何想像してんのよ。コホンッ。それより…それまで何してようか。

少し前まではハジとほんのわずかな時間も離れられなくて、こうして一人きりの時間ができるたびに軽くパニックを起こしてしまいがちな小夜だったけれど、ハジが少しずつ人間社会の中に溶け込んでいくようになって、そんなハジの姿を穏やかに見つめている自分を自覚してからというものパニックを起こすこともなくなった。
互いに、誰にも何にも負けない強い絆で二人が結ばれているから、その証だと思えるまでに二人の愛は強くなっていた。





何の予定もないこんな時は、結局OMOROへと自然に足が向かってしまう。
『チョコの手伝いして。』
とお願いした時のカイの様子は、普通ではなかった。らしくないカイの様子は気になっていたものの、ハジへのチョコのことに気を取られているうちにすっかり忘れてしまっていた。いつも、ハジとは違う優しさをくれるカイ。いや、あの時も優しかった、ただ少し寂しそうで少しだけ怒ってた。あの時の情景を思い出すと、これ以上カイを放っておいてはいけない気がした。
OMOROに向かう前、小夜は少しだけより道をした。
時代から取り残された、いかにも年期を帯びた古いドアを手で押して開ける。この時代にあって、自動ドアではないところがカイのこだわりだ。ドアの動きにつられてカランと音を立てたベルが真っ先に、小夜を『お帰り!!』と迎えてくれた。
カイは厨房でランチの仕込みに奮戦しているところだった。
『カイ、ただいま。』
一言だけそう言って、カイの動きを眺めていた。ちら、とこちらに目を走らせたきりカイは何も言わなかった。小夜はカイを手伝おうかとも思ったが、それはきっと手伝いどころか却ってカイの迷惑になるに違いない、とあっさり辞めた。
住居のほうにいたのか、香里が顔をひょこりと見せた。挨拶もそこそこに意味ありげな視線を向けられ、やっぱり自分がカイの気に障ることをしたのだと悟る。何の会話もないまま、妙に居心地の悪い時間。
しばらくしてランチタイムがやってきた。お客さんがなだれ込んできて、小夜はここで唯一手伝える、オーダー取りをし、出来上がった品を運んだ。怒涛のような時間は過ぎた。
3人で摂る少し遅めの昼食。そこでもやっぱり終始無言は続いていて、香里とだけやたら目が合うところから察するに、香里もそうとうこの雰囲気に辟易しているのだろう。
「さ、小夜!! 今日よね、例のバレンタインコンサート。当然小夜は行くんでしょ。」
「あ、うん。行くよ。ハジも楽しみにしていて下さいって言ってくれたから、ね。」
「で、そのあと、チョコをあげるんだ。いいなぁ〜ラブラブさんたちは。ね、お父さん。」(香里さん、それ思い切り地雷ですって!!分かってて言ってんのか、おい?)
「……………………。」
その後はまた、気まずい沈黙がひたすら続いた。
いち早く食べ終えた食器を片づけ、カイは夜の仕込みに取り掛かった。こうなったらきっと今日は何も話しはできないだろう、と小夜は諦め軽く肺に堪った重苦しい空気を吐きだした。カイのことが気になってやって来たのに何もできないのは不本意だけど、自分の何がカイを怒らせたのか分からない小夜には、どうすることもできない。しばらく壁にかかる時計の針を見つめていたが、程よいころ合いになったのを引き際に、OMOROをあとにしようと重い気分と腰を引き上げた。
「カイ、いつも心配させてごめんね。それからありがとう。あのね、カイは大好きな家族だもん、だからこれは義理じゃないからね。じゃあ、ハジのところに行ってきます。」
そう言って、厨房のカウンターに寄り道した時に買ったチョコをそっと置いて、店を出た。
背後から、カイの雄叫びのような声が聞こえたが、小夜はたいして気にも留めなかった。





小さな、それでも300名近くを収容できるホールの座席は埋まっていた。
6時を少し遅れて始まったバレンタインコンサートは約2時間かけてどれもがバレンタインにふさわしい甘いラブソングばかり10曲が演奏される。
『ホール・ニュー・ワールドー・ワールド』から始まったコンサートは、『When I Fall In Love』『君の瞳に恋してる』『愛の賛歌』『愛はかげろうのように』『L-O-V-E』と順調に観客の心をひきつけ、ハジのチェロによるガスパールの『愛の言葉』が流れ出すころには、水を打ったように静まり返って観客皆が演奏に聞き入っているかと思えば、曲の合間合間にあるMCの得意な団員による楽しいトークの時間では、場内は笑いの渦と化したりもした。実際MCを楽しみに毎回足を運ぶファンも多いというし、それはフィルのメンバーからすれば嬉しい大誤算なのだが、もうこの小さなホールでは次回からの公演は無理ではないかと思わせるほどに、今日も満員御礼の大入りになっていた。
そして演目は『いつか王子様が』『Your Song』と続き、『My Funny Valentine』でひとまず幕は下りる。
最後の曲が終わると割れんばかりの拍手とアンコールの声が会場に響きわたった。楽団員たちが一斉に立ち上がり、客席に向かって一礼、と同時にステージに緞帳が下りた。
しばらくして、ふたたび幕が上がり、すぐさまアンコール曲が流れ始めた。
公演中、小夜は舞台袖からずっと、指板の上をせわしなく動くハジの左手を何気なく見つめていた。いつも小夜の客席は舞台袖にある。一般客は入ることの許されない舞台袖。そこは関係者にしか許されない特別の場所だ。その特別扱いが小夜はこの上なく嬉しかった。ハジは小夜のために用意したその場所に、いつも一輪のピンクのバラを添えてくれた。
今、舞台袖から見るハジの左薬指にはプラチナの輝きはない。演奏の邪魔になるからという理由でハジは、ステージに上がると小夜の見ている前で左薬指の指輪をはずし、そして、演奏が終わると小夜の見ている前、ステージ上で指輪を嵌める。それはまるで儀式のようだ。
どうしてわざわざステージ上でするのか、と一度問うてみたことがある。

『あらぬ誤解を生まないための策ですよ。』

とハジは笑っていたが、実のところ小夜はよく分かってない。でも、自分の知らないところで指輪を外されて、輝きを失った左薬指を見たらきっと、その理由を知っていたとしても、自分はとてつもない不安に駆られるだろうと思う。その光景を思い浮かべただけで、胸が締め付けられるように痛むことだろう。
ふと気づけば、ハジがタキシードのポケットから指輪を取り出し、指に嵌める仕草が見えた。
今日のコンサートはこれで終わり、だ。
「さぁ、帰ろうっと。」
ハジはこの後、片付けと今回の公演での反省会を済ませ、約1時間後に帰宅予定だ。
ハジが玄関のドアを開けるその時は、
「お帰りなさい。」
その一言で温かくハジを迎えたい。小夜はいつもそう思い、そうしていた。
『ただいま戻りました、小夜。』
小夜は
舞台袖に用意された椅子から軽快に腰を上げた。
2月の寒空の下、一人で家路を辿る。脳裏に蘇るハジの柔らかな声音と広い胸の温かさで心は満たされ、外気の冷たさなど全く感じることはなかった。





脳裏によみがえった言葉そのままに、ハジが玄関のドアを開けた。
ところが、温かな胸に抱きしめられることはなかった。冷たい夜気と共に玄関に足を踏み入れたハジのその両手は紙袋でふさがっていたからだ。瞬間、嫌な予感が胸をかすめた。
「ど、したの、それ?」
恐る恐る、声音が固くならないようにと気を配りながらハジに尋ねてみた。ハジは、
「ホールを出たところでたくさんの女性たちに囲まれまして…いえ、私はお断りしたのです。私にはあなたという大切な女性がいますから、と。ですが、押し合い圧しあい無理に押し付けられてしまって…。あなたにそんな顔をさせてしまって、やはり…どこかに捨ててくるべきでしたね。今からでも。」
そう言って、くるっと小夜に背を向けて玄関のドアを開けようとしていた。そのハジの背中を見た刹那、思わず小夜は叫んだ。
「大丈夫、ハジ。全然気にして、ない、から。そんな顔って、ちょっとびっくりしただけだから気にしないでよ。ほら。だってハジ、それファンの人からの贈り物でしょ。そんなの捨てたりしたらだめだよ。ファンは大事にしなきゃ、ね。」
頑張って意識して口角を上げ、笑顔を作って見せた。けれどきっと醜く引きつっていたに違いない。ハジの笑顔もどこか苦渋に歪んでいた。
でも今日はせっかくのバレンタインなのだ、と気を取り直す。
ハジがまだ紙袋を手にしたまま、冷える玄関先で立ったままでいることに気がついた。
玄関先から暖かな室内へ、ハジの手を引き招き入れる。リビングを灯す暖かなオレンジ色の照明がなぜか目に沁みた。
― 大丈夫。ハジは私だけを見ていてくれる。ハジは私だけを愛してくれる。ハジは私だけ…。
ハジの手から強引に二つの紙袋を奪うと些かぞんざいにソファに腰掛けて、中身を一つ一つ手にとってテーブルの上に並べてゆく。
「ね、ハジ。今年はどんなのもらったの。私が見てもいい?あつ、これ、雑誌に載ってたやつだよ。あっこれも。おいしそうだなって見てたんだ。」
ハジが貰って来たものは、どれもこれも義理などではなく、ラッピング一つとっても本命のためのそれであることなど一目瞭然で。その事実にいっそう小夜の心は千々に掻き乱されて、小さな傷が生まれてゆく。下がりそうになるテンションを必死で上げるため、わざと大きな声で話しかけた。そうでもしないと泣いてしまいそうだった。
「ねぇハジ、これ全部、私が食べてもいい?こんなにたくさんあるのに、食べないなんてもったいないでしょ。」
ハジは小夜のすぐ隣に腰をおろして、小夜の手元を見ていた。
「………………。」
とあるひとつを手にした小夜の動きが音もなく止まっているのに、ハジは気づいた。しかも、悲しげに俯き小刻みにその手が震えていた。
「小夜?」
うつむいたその顔を覗き込んだその時、小夜の眼から大きな滴がぽたぽたと流れ落ちた。
「小夜?どうしたのですか?これが、このチョコが何か…。」
ハジの言葉をすべて聞き終わる前に、小夜は勢いよく立ち上がると寝室に駆け込んで、すぐさま小さな小箱を一つ手に、再びハジの前に現れた。
そして、先ほど見ていたものを左手に、今しがた寝室から持って来たものを右の手に持ち、嗚咽をこらえ高揚する意識とは裏腹に体を小刻みに震わせながら、必死で何かを伝えようとしていた。ハジは、そんな小夜を両腕に優しく抱きとめて額に頬に触れるだけの口付けを落とす。そうして小夜が自ら語るのをひたすらに待った。しんと静まり返った室内に小夜の嗚咽がやたら大きく響く。どれほど経っただろうかやがて小夜はぽつぽつと、しゃくりあげながら胸の内を吐露し始めた。
「わ、私、ホントはハジに、手作りのをあげたかったのに、うまく、出来なく…、しかたなく、買い…行って…、もっと大きなの、よかったのに、なのにもう無くて…。なのに、ハジ…。」
語尾は最早聞き取ることさえ不可能なほど小さく弱弱しいのに、それきり小夜の口は貝のように頑なに閉じてしまった。痛々しいほどに爪を掌に食い込ませ固く握った拳。色を失うほどきつく噛んだ唇。こんな悲しげな小夜の姿はもう長く目にしたことがなく、正直ハジはどうしたらいいのかわからなくて戸惑っていた。
それに、先ほどの小夜の話ではうまく要点がつかめなかった、のだ。
しかしよくよく見ると、小夜が左右の手でそれぞれ持っているものは、大きさが違うものの包装紙は同じ。
― なるほど。
小夜の言わんとしていることが、瞬時にさっと霧が晴れるように理解できた。
ハジは、小夜の正面に回り込むとそっと、震える細い肩を柔らかく、そして力強く優しく抱きしめた。
「小夜。あなたの気持が何よりもうれしい。だからもう、そんなに泣かないで。」
相変わらずハジは言葉少ないけれど、それだけでも小夜には十分伝わったようだった。少しづつ厳めしく強張った肩先から力が抜けていき、ハジが支えてやらなければならないほどに。
腕にすっかり身を預けた小夜が可愛くていじらしくて愛おしくて。ハジはチョコよりもこのまま小夜のほうをおいしく食べてしまいたい衝動に駆られたが、ぐっと理性を総動員して絶えた。
しばらく小夜の身体を抱きしめその甘さを味わっていたが、小夜がすっかり落ち着いたころ。
「ところで小夜。小夜からのチョコレートはいつ頂けるのですか?」
ハジの問いかけに大事な一番肝心なことをすっかり忘れていたことに気づき、慌てふためいて。
「こ、これ!!私から、です。手作りじゃないけど、たくさん入ってもないけど。私の気持ちはいっぱい籠めたから。受け取ってくれますか、ハジ。」
「ありがとうございます、小夜。」
そうして恭しく小夜の手からチョコの包みを受け取ったハジは、すぐにラッピングを丁寧に解いていった。ハジの大きな掌に慎ましく納まってしまうくらいの小さな箱。その中から出てきたのは、わずか4粒のトリュフチョコと、その中央に配された穢れなき愛を語る白いハート形のチョコ。
小夜は、その白いチョコを細い指でつまむと、ハジの口元に運んだ。
「こんなにいっぱいあるけど、私のを一番に食べて、ね。」
ほんのりと頬を薄紅く染めて、
「はい、ハジ。あ〜んして。」
上目使いにハジを見上げれば、ハジは心得たもので。
きれいな形に口を開いた。 
ゆっくりとハジの口の、赤い舌の上に白いチョコが乗せられて、閉じられゆくハジの唇が笑みの形を象るまで、ずっと小夜はハジを凝視していた。
「とても美味しいですよ。甘くて、香り高くて、そうですね。まるで小夜のようです。」
蕩けそうな笑顔でそう言われて。小夜の顔がまるで、ゆであがったタコのように真っ赤に染まって。
そこからは小夜の想像した通り。
「あとは小夜、どうぞ!!」
と、ハジの長い指が茶色の丸い塊を摘まんで小夜の口に運んで、そして小夜の唇にハジのそれが重なって、小夜の口中で溶けたチョコをハジの熱い舌が舐めとって…。
あとは、ホントに甘い時間が始まった。

ひとしきり、二人の時間を堪能した後で。

「小夜。あなたが私のために作ってくださるのなら、たとえ焦げていても、形が歪でも。それは何よりもうれしい贈り物なのです。私には、不器用でも一生懸命なあなたが…愛おしくて堪らないのですから。」

ハジのその言葉に、来年こそは手作りチョコを!!と固く決意した小夜だった。




あとがきという名の言い訳

お待たせしました。やっと書けたぁ。
直したいとこいっぱいあるけど、もういいです。
自分の力不足、とあっさりあきらめます。
後篇ほうが長くてバランス悪くて、すみません。

「私のを一番に食べて」って台詞を小夜に言わせたかったんです。
「はい、あ〜んして。」をさせたかったんです。
ただそれだけのことです。
あぁ〜自己満足完了!!
読んで下さってありがとうございます。
感想などありましたら、でどうぞ。
ブラウザを閉じてお帰り下さい。