Cool Down 【1】
ジュリアのクリニックを一歩出ると、外はもうとっぷりと日が暮れていた。暦の上では春を迎えたといっても、日の暮れる速さはまさしく冬のそれだった。
幸いにもこの夜の月は新しく生まれたばかりのわずか月齢一日目の細月で、西の空の低いところで自己を主張する光は、か細くこの上なく頼りない。
ハジは久方ぶりに漆黒の翼をはためかせた。肌を刺すような夜気の冷たさを思うと躊躇わずにはいられなかったが、一刻も早く小夜が欲しくて、ゆっくり歩いて帰路につくなど到底出来ようはずもなかった。冷気から守るため包み込むように抱きしめた腕の中、すっかり体を預けた愛しい人が瞬きも忘れて自分を見つめている。少しだけ開いたふっくらとした唇がルージュも何もつけていないのに艶やかに光っていて、そんな小夜を見ているだけでハジの理性は溶かされていくようだった。
小夜は、やせ細った月を視界の隅に置きながら、ハジをじっと見つめていた。ハジはよほど気が急いているのだろう、地上ではあり得ないほどの強さで刺すような冷気が絶え間なく頬を打ち付ける。
その冷気に次第に小夜は冷静さを取り戻していた。
ハジとの愛の結晶をこの身に授かってからというもの、夜の営みがなくなり小夜は寂しい想いをしていた。ハジとの行為は決していやではない。それどころか愛し合う二人にとって、互いの熱を温もりを分け合うその一瞬一瞬がどれほど幸せな時間か身をもって覚えたのだ。けれどその幸せを知っても、恥ずかしさが先立ちなかなか慣れることはなかったのだ。
そんな小夜の恥じらいこそがハジの男をより刺激させていることなど小夜は知る由もなく…。
不安だった。もう愛されていないのではないかと、とてつもない不安を小さな胸に抱え独り怯えていた。ハジは、小夜が意識を手放すまで一瞬たりとも愛撫の手を休めることなどなかったから。それほどまでに夜毎深く激しく愛されていたのだ。それなのに…。
ハジの愛を疑うなんてバカげている!! そう一蹴してしまえる自分がいる。けれど、それならなぜハジは私を抱いてくれなくなったんだろう? 直接ハジに問えば、それで悩みは解決する。でも、それがもし…もう愛していないという答えだったら…。
ハジを失うことが怖くて怖くて怖くて。寂しくて寂しくてどこにも持って行き場のない想い。手を伸ばせば、いつでも触れあえるほど近くにいるのに…ハジが恋しくて恋しくて、気が狂いそうなほど恋しくて、そして抱いてほしいと初めて、そう本当に初めて心からそう思った。愛してもらえたら、きっとすべての不安が消える。
だからって!!
―わっ、私、ジュリアさんになんて話を!! 今度いったいどんな顔して会えばいいのよ!?
夜気に当てられ冷えたはずの頬が、急激にかぁっと熱を帯びてくるのが自分でもよく分かった。
―それにハジ。今日はきっと手加減なんてしてくれないよね。お手柔らかになんて言葉もきっと通じないよね。
刺すような冷気に頬を打たれながら、逞しい腕に抱かれて束の間の空の旅。緩く波打つ漆黒の髪が風に煽られむき出しになった白皙。白く透き通るはずの肌がやや赤らんで見えるのは気のせいだろうか…。まっすぐに前を見据える瞳が、やや赤みを帯びているのは気のせいだと思いたい。
―なんだか、ハジ、嬉しそう、なんだけど…。もう、私のバカ!! 大バカ!! これからどうするのよ。どうなったって知らないんだから…。
容易く今夜のこの後の展開が読めるのは経験の賜物だろう。鮮明なまでに脳裏に浮かび上がる映像を前に小夜は、身体の芯までもが熱を帯びてゆくのを感じていた。
あっという間に二人で暮らす家の庭先へと音もなく降り立つ。そのままハジは小夜を抱きかかえて寝室まで運んだ。
小夜を腕に抱いたまま、ハジは後ろ手でドアを閉めた。パタンと少しだけ大きく響くその音がハジの逸る気持ちを表しているかのようだ。
寝室の中央に鎮座する、この日本、ましてや小さな島のこの沖縄の、一般の民家ではなかなかにお目にかかれない天蓋つきのキングサイズのベッド。ハジは静かにベッドのふちに腰をおろし、小夜の身体を自身の膝上に優しく束縛した。交錯する赤と青の瞳。やがてどちらからともなくゆっくりと顔を寄せ合い重ね合わされる唇。柔らかな唇の感触を確かめるように、じゃれあうように啄ばむように繰り返す優しいキス。それも束の間のこと。やがて口付けは深くなり、湿った水音が部屋に響く。絡めあわせ、甘噛み、小夜の口の端からどちらのものか分からない滴が零れ落ちても止められない。充分すぎるほどに互いの口の中を堪能して、そしてゆっくりと離れていく。
「ハジ…。」
ありったけの想いをこめて、愛しい人の名を呼ぶ。と、優しい感触は唇から耳朶へと移り、低く囁くような声音が小夜を酔わす。
「小夜、可愛い私の小夜。愛しています。」
ハジからの愛の告白はもう何度となく聞いているというのに一向に慣れなくて、囁かれる度恥ずかしさに顔が紅潮していく。でも、何回でも言って欲しい…、と素直に思う。
「ねぇ、ハジ、もっともっと愛してるって言って。お願い。」
ハジは、そんなことは容易いことだとでも言うように優しく微笑んで、小夜の望みを叶えてくれる。
「小夜、愛してる。愛してる。小夜、貴女だけ…、貴女だけを愛しています。」
少しだけ掠れた低く甘い声音はそれだけで心までも溶かす、まるで媚薬のようで…。
囁くごとに、抱きしめる腕の力が強まっていき息苦しくなる。でもその苦しさもハジが与えてくれるものだと思うとたまらなく愛しくて、お返しとばかりにギュッと精一杯白い首に手を回してしがみつく。
律儀にも「愛してる」の囁きを繰り返しながら、ハジは小夜の体をベッドに横たえさせると、熱い吐息と共に小夜の額から耳朶、鼻先、唇へと口付けの雨を降らせていく。同時に悪戯な掌は、なだらかな双丘へと伸ばされ、やわやわと揉みしだきはじめた。服の上からでも判るほど硬さをもった頂を指先で弄られ軽く甘噛みされると、小夜はこの日初めて身体を奔る悦びに抗えず、切ない声を上げた。それはハジが久方ぶりに聴いた、小夜の啼き声だった。