寄せては返す波のように
絶えることなく君に幸あれ
第2話
京から遠く離れた西国で、一人の男が引潮に曳かれてゆくようにその生涯を終えようとしていた。
内裏にあっては帝の懐刀とまで称され、高貴な身分の方々の中では琵琶の名手にして類稀なる美貌の持ち主と持て囃され、そして京の危機においては龍神の神子を護る八葉に選ばれし男。
男が左近衛府少将と呼ばれていたのは、遠い昔。あれから幾星霜。
その容貌は生きた年月に見合うだけの陰りや衰えがあるかと思いきや、往時持て囃された美貌には僅かな陰りもなく、涼しげな眼元と柔らかな微笑を称える口元に細かな皺を刻んだだけのように見える。
男は最後の戦いからしばらくして、癒せぬ傷を心に抱えたまま、逃げるようにして京を去った。
己の犯した過ちの罪深さ、己が幸せを奪った者達への悔恨、未練も執着も存在自体さえも消すかのように誰に知らせることもなく、ひっそりと。
彼を見送ったのは、魂の分身である天の白虎ただ一人だった。
そうしてたどり着いた、この伊予の国。
波穏やかなこの地を終の住処と定めるのに、たいして時間はかからなかった。
脚が濡れることも構わずに波打ち際を歩いているとき、過去の罪も想いも何もかもを波が攫ってくれるかのような気がしたからだ。
しかし、何処にいようとも自分の罪から逃れることなどできはしなかった。
春、咲き誇る桜の花を見るたび、夏、夜空に煌く星々を目にするたび、
いや夜空を照らす月を眺めるたびに、男が唯一愛した桃源郷の姫君の、最後に流した涙をまざまざと思い起こすのだ。
「神子殿…。君は今…。」
そして今、余生を過ごすために構えた海辺の屋敷の、暖かな日差しの差し込む房の中で、
絶え間なく寄せては返す波音に誘われるように、懐かしき日々を思い返していた。
********************************************
危機に瀕した京を救うべく現れた龍神の神子は、想像していた斎の姫とは似ても似つかぬ少女だった。
神子というからには、気高く楚々として神々しいまでの存在と、京の人間は誰しもがそう思い描いていた。
そう…のちに神子と結ばれた青年でさえも、だ。
けれどもその天性の明るさともいえる心根の清々しさや身分などに拘らず誰にも平等に向ける曇りなき笑顔は、この京という世界で生きてきた男たちには何もかもが新鮮で何もかもが魅力的に見えたのだ。
それは、宮中やそこかしこの貴族の屋敷で浮名を散々流してきた男にとっても同じことだった。
神子の、ただ表立って見える明るさの裏に、誰にも見せることなく心の奥深くに隠し通そうとした悲しみや苦しみがあることなど、ただ一人を除いては知る者はなかったのだ。
武骨で不器用で朴念仁の代表ともいえる武士の心の変わりようは、そのまま友雅のそれと同じだった。
どこに行くにも何をするにも、新緑の瞳をもつ少女のことが頭から離れず、その動向から目が離せず、気づけばいつも目で姿を追っていた。
だから頼久の神子への思いの深ささえも手に取るように自然と知れたのだ。そうしてある時、友雅は知った。
自分が思いを寄せる少女の想いの行先も。
やがて神子は、鬼との戦いを無事終結させ、ひとりこの世界に残った。
永く彼女の心を慰めてくれた友人との永久の別れは、心に幾許かの波風を立てることになったけれど。
愛するただ一人のために生きると決めた少女の瞳に迷いの色はなかった。
あの日、鬼との最後の戦いの後、龍神に取り込まれそうになる意識の中で願ったのは、頼久とともに生きたいという一途な想いだった。
その願いに応えた龍神からの1年という期限付きの条件はとてつもなく重いものではあったけれど、愛し合う二人にはさほど困難なこととは思えなかった。
だから…誰にも龍神の意思は言わずに、ただ頼久とあかねの心の内にのみ秘められた。
ほどなくして龍神の神子、元宮あかねと源氏武士団次期棟梁、源頼久の婚儀が行われた。
いささか性急な事の運びと言わざるを得なかったものの、想いを通じ合わせながらも歯がゆいばかりの二人にやきもきした幼い星の姫からの、それは粋な計らいであった。
ただ二人を待っていたのは、甘い蜜月ばかりではなかった。
あかねのために新しく建てられた屋敷で、彼女は今夜もまた一人、愛しい男の帰りを待っていた。
神子の夫となった頼久は、武士団次期棟梁とはいえど左大臣(さのおとど) に仕える一介の武士に過ぎず、乞われるままに役目をこなしていた。
八葉としての重責を見事に務め果たした頼久を、左大臣が以前にも増して重用することになってしまったことが一因であるのも事実であるが、頼久自身、龍神の神子の背の君という名に恥じぬよう、という思いを胸に抱いていたことも大きな理由だ。
三日夜餅を二人睦まじく食べたその翌朝から、彼は夜も明けぬうちから役目に出ていった頼久の後ろ姿に、新婚旅行など存在しない世界とそれはわかっていたけれど、もう少し二人きりで甘い余韻に浸っていたかったあかねは、少なからず寂しさを覚えたものの、
「あなたのいる場所が私の帰る場所なのです。」
と、閨で囁きかけてくれた彼の言葉を思い出し、いつの日もひたすら頼久の帰りを待ちわびた。
実際どれほど夜が更けようと、頼久はあかねのもとへと帰った。
頼久があかねに一人寝の寂しさを味わわせることはなかった。
あかねが本当はとても寂しがり屋なことを知っていたからだ。
この世界に連れられてきたばかりのころ、なかなか慣れることのない異世界の土御門の一人きりの房で、夜闇に紛れるように隠れて泣いていたあかねを知っているのは、夜毎、宿直(とのい) であかねの房を護っていた頼久だけだ。
「こんな真っ黒な夜は知らない。」
だから怖いのだと。父を母を、元の世界を思い出しては溢れる涙を止めることもできず、泣いていたあかね。
共にこの世界にやってきた友人でさえも知らなかっただろう、そんなあかねの脆く壊れそうな心を護り続けたのは頼久、ただ一人だ。
嗚咽を堪え、瞼を濡らし、それでも翌朝には何事もなかったかのように、怨霊退治に出かけるあかねの後姿を、頼久はいつも遣る瀬無い思いで見つめていた。
「龍神の神子を、この方を護りたい。」
それは頼久のあかねへの想いの根源の総て。その想いは、夫婦の契りを交わした今でさえも変わることはなかった。
京の町とそこに暮らす人々は、平和で穏やかな顔を取り戻しつつあった。そして、神子と八葉たち、それぞれも…。
そうして二月ほどたったころ、頼久は役目のためにほどひと月家を空けなければならないことになった。
各地に点在する所領を巡察する左大臣の警固のためである。
出立の日、朝もやの中のあかねはひどく幼げで痛々しいほど健気だった。どれだけ「行かないで。」と泣いて縋りつきたかったことだろう。
それなのに、「私は大丈夫…だから…。」と消え入りそうな声で告げ、涙をこらえて微かな笑みを頼久に見せた。
少女は少し前から体調を崩していた。
そのことが頼久の心配の度合いをより強くしていることも、
そんなあかねを一人にしてしまうことにどれほど頼久が心痛めているかということも、あかねはよくわかっていたから、喉元まで出かかった言葉を精一杯の想いで飲み込んだ。
息もできないほど抱きしめられた時には、堪えていた涙がとうとうと頬を伝った。
明け方近くまで頼久の腕の中で泣いていたあかね。この京で頼れる者は夫である頼久だけ。
その頼久不在のひと月を思うと寂しくて気が狂いそうで、一度堰を越えることを覚えた涙は涸れることなく頬を濡らした。
「泣いたりして…ごめんなさい。ほんとにわたしは大丈夫だから。ちゃんと頼久さんの帰りを待ってる。前に、私のいるところが帰る場所って言ってくれたから、寂しくても頑張れるよ。」
嗚咽混じりの声で精一杯の笑顔を浮かべてそう告げた。
「こんな大切な時にあなたをお独りにしてしまうとは…。どうか…どうかくれぐれもご無理などなさいませんように。お身体をおいといください。頼久の気がかりはただそのことにございます。」
「うん、ちゃんと分かってる。ほんとにね、私は大丈夫。だから頼久さんも、怪我とか気を付けて。傷一つでもつけて帰ってきたら、許さないから!!」
そう言うと、少女は夫の背を優しく押した。
やがて頼久は、後ろ髪を引かれるように土御門をあとにした。あかねは、頼久の姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けていた。
そしてその数日後、事件は起きた。
あかねが忽然と姿を消したのだ。何者かによって攫われたのは明白であった。