【2】
N.Y.オペラハウスで、ハジの身体が瓦礫の山に消えたあの瞬間、私の心は…死んだ…。
あなたが共にいてくれると信じたから、生きたいと思った。あなたのいない未来は、何の意味を持たない無明の世界。どこまでも続く闇。明けることのない夜。何も見えない、何も聞こえない。
沖縄に帰って早3週間ほどが過ぎていた。辛く苦しい戦いから解放され、元の穏やかな生活を取り戻し、まるで初めからそうであったかのように、時間は緩やかに流れていく。
小夜自身高校へ復学し、友達と交わす他愛のない会話も平和の象徴のようで、少しばかり戸惑いと息苦しさを感じてしまう。家では優しい兄が、いつもお腹がいっぱいになるまでご飯を食べさせてくれる。もうほんとは今の身体はそれほど多くの食物を必要としなくなっているけれど。でもそんなことカイには言えない。食べないと心配するから…。食卓には兄とたった二人きりであっても、笑顔が零れている。
平和。平和。赤い血が吹き走る闘いの日々の中、あの頃望んだものが今、ここにある。
でも何かが足りない。心の中にぽっかり空いた大きな空洞。それを埋めてくれる人は…いない。
不意に涙がこぼれてきそうで少女は慌てた。こんな姿をカイに見られでもしたら…。けれど溢れ出した想いを止める術を持ち合わせているほど、強くはなくて…。
生きたい。と願ったのは、これから先ずっとあなたがいてくれると思ったから…。自分に残された時間のすべてをあなたが共に渡ってくれると信じていたから…。
― それなのに…どうして…私を独りにするの?
声に出して名前を呼びたかったけれど、どうしてもできなかった。呼んでも現われなかったら、信じたくないあなたの『死』を受け入れなくてはならなくなりそうで、ただひたすらに怖くて…。もう二度とあなたに会えないなんて…信じたくはないけれど。頭の中思いつくのは、どちらかといえば哀しい結末ばかりで。
― お願い。私を独りにしないで。
低く甘い囁きで、もう一度『小夜』って呼んでほしいの。
望むことは山ほどあるのに、何ひとつ叶わないかもしれない、という恐れが小夜の心をより一層深く抉る。
人は誰も、大切な何かを失くしてからその大切さに気づく…という。まさに今の小夜はその典型のようなものだ。
なぜもっと素直になれなかったのだろう?自分が傷つくことなど恐れずに、何時の時も楯となって、護り愛しんでくれた広い背中。あなたの気持にはきっとずいぶん前から気づいていた。なのに、自分の罪の意識だけにとらわれ、一番近くにいた誰よりかけがえのない人の心を蔑にした。これ以上の罪があるのだろうか?私こそがあの瓦礫に消えてしまいたかった。
あの日以来覚えたのは、作り笑いと誤魔化し方。気遣ってくれる人にこれ以上心配をかけないように、日一日と過ごすたびだんだんと上手くなってゆく。なのに心はあの頃のまま、いつまでたっても素直になれない。
― だからあなたを失ったの?
体力の限界を超え、いつ眠りの時が来てもおかしくないはず小夜の身体は、自ら犯した罪に対する罰を受けるかのように、安らかなたった一時の眠りさえも受けいれることはなかった。宵も更けたころ彼がこっそり訪ねて来てくれるかも…そんな淡い期待を抱いていたのかもしれないけれど。
日毎、小夜の心身はハジのいない寂しさに蝕まれ、衰弱していく。
カイはそんな小夜を見てもどうすることもできず、やるせない思いを抱くほかなかった。
あの時、ハジが瓦礫に飲まれていったとき、「危ない。」と小夜を止めたのは、カイだ。なのに、小夜はカイを責めるでもなく、自分の罪として心を痛めている。カイは今更ながら、小夜にとってのハジという男の存在の大きさを思い知った。まるで二人で一つの心を分け合っている、そんなふたりだったのだと…。引き裂かれた二人を何とかして元に戻してやりたいと思っても、その行方どころか生死すら分からない男を探し出すことなど、カイ一人では到底無理な話だ。
それは、ふと、ジョエルなら…と思いたった矢先のことだった。
フランスにいるジョエルのもとから、小夜宛に大きな荷物が送られてきた。その荷を解いたわけでもないのに、小夜にはそれが何かすぐに解ったらしかった。
それはハジのチェロケース。
ぽろぽろと大粒の涙を零しながら荷を解く。姿を現したチェロケースを抱くように腕をまわし、愛おしそうに何度も何度も撫で、そして唇で優しく触れ…。まるでハジ本人が還ってきたと思わせるような小夜の仕草に、カイはいたたまれず目を逸らすしか術がなくて…。
小夜はチェロケースから離れたくないようだった。時間の許される限り寄りかかり、夜がきてそのまま朝を迎えて、香里の迎えで学校に通う。そんな状態が幾日か続いたある日、カイは小夜に呼び止められた。弱々しい声であったが、それは本当に久方ぶりに聞いた小夜の声。
「…カイ、昨日ね、夢を見たの。ハジの…夢。ハジ、とても寂しそうな声で、“小夜、笑って。”って私に言うの。“あなたがいないのに、笑うことなんてできない”って答えたら、ハジね、“小夜、待ってて…。必ず、貴女のもとに帰ります。だから、どうか小夜、笑顔を忘れないで…。”っていうの。ハジ、ものすごく優しい顔してた…。私でさえ今まで一度だって見たことがないくらいの…。ねぇカイ。ハジは生きてるんだね。ちゃんとどこかで生きているんだね。今は何かの事情があって…でも…ちゃんと生きて…る。私、信じることにした…の。だってね、ハジ、私に嘘言ったことなんて一度もないの。だから…信じられる。私、ハジが帰ってくるのを信じて…待ってなくちゃいけない。何時の時もハジが私のこと待っていてくれたように…。今度は私が、ハジを待つ番なんだね。」
涙をその瞳いっぱいに浮かべ、愛しい男の名をありったけの思いを込めて口にする。
― こんな極限の中にいてさえ、どうして小夜はこうも輝いて見えるのか。
小夜が心から求める者がハジでなかったら、兄妹としての線を越えてしまったのかもしれない…とカイは突如襲った思考に身震いした。
それから数日後、小夜は長い眠りに就いた。愛しい男の生還を信じた小夜の寝顔は、とても穏やかで安らかだった。
【1】の続きです。これは余り手を加えていません。
初めて書いた時の、ほぼそのまんま。
小夜にはちょっとどころか、思いっきり反省して欲しくて、書いた記憶…があります。
でも、ハジの幸せは小夜と共にあるので、あまりいじめてしまうとマズイ…。
このくらいならいいんでないかしら!
駄文にお付き合いくださいましたこと、心より感謝いたします。