【2】
明るい世界を支配する太陽が天頂をほんの僅かに傾きかけた昼下がりの午後。
エントランス付近は、まるで外の灼熱と大して変りなくじりじりと焼きつける日差しが眼に痛いくらいなのに、少し奥まったこの廊下はいつも薄暗く静謐だ。そのしんとした空間に男が一人。胸の前で手を合せ、まるで祈りを捧げているようだ。
まるでこの世の不幸を一身に背負ったかのようなその姿は、一体どれほど多くの人の心を引き付けることだろうか。ゆるく波打つ漆黒の髪。引き込まれるほどに澄んだ薄青の双眸。緊張のあまり浅く吐いた息とともに唇から紡ぎだされるのは、この男にとって愛を捧げるべき唯一にして絶対の女神の名。
「小夜…。」
なす術もなく、うなだれ、建物の最奥に意識を飛ばしている、今は哀れを誘うその姿。これほど不幸が似合う男もそうそういやしないだろう。
時の流れは、この南の島の季節を真夏に変えた。照りつける太陽がまるで恨みでもあるかのように、じりじりと肌を焼く。透き通るほどに白い肌と色素の薄い瞳を持つハジにとっては、正直苦手な季節であったが、小夜の弾けるような笑顔は、空高く瞬く太陽に負けないほど光輝いていて、ハジの心はより一層幸福で満たされていった。
幸せな日々が続くと誰もが、そうハジでさえ信じて疑わなかった。それはあまりに突然のこと、先日来の不安からも解き放たれ、本当に漸く身も心も健やかに穏やかな暮らしがおくれると思った矢先のことだった。
小夜の突然の体調不良。
まず最初に顕著に現れたのは、食欲不振だった。自他共に認める大食漢の小夜が、食事を残すようになる…。ハジにとって天変地異よりも心掻き乱される大事件だ。
― せめて大好きなデザートならば。
と腕を奮っても、小夜は一口二口、口に運ぶだけで手を止めてしまうのだ。その上、十分睡眠をとっているのにも拘らず、小夜は四六時中睡魔に襲われるようになった。
症状だけ見れば、長い休眠を迎える前にどこかしら似ていた。
そしてこの日。少しの気分転換にでもなればと連れ出した散歩の最中に、あろうことか小夜が倒れてしまったのだから、ハジの心中は量りきれない。その場は過保護なほど小夜にべったりなハジによって大事には至らずかすり傷一つ負うことはなかったものの、心配の余りハジは嫌がる小夜を文字通り担ぐようにして、ジュリアの病院まで運んできたのだ。
血相変えて小夜の様子を捲くし立てるハジから小夜の症状を聞いたジュリアは、“…そう。分かったわ。”と一言呟くと、小夜を院内の奥の検査室に連れて行った。
ハジはたった一人、こうして病院の薄暗い廊下の長椅子に座り、不安な気持ちを抱えたまま、小夜の検査が終わるのをひたすらに待っているというわけだ。
孤独と不安が背中合わせのこの時間が永遠に続くかのように思えた。ジュリアに連れられ廊下の奥へと消えていった小夜。
「大丈夫だよ。」
ハジを安心させるために無理して笑っていることは明らかだった。絡め合わせるように繋いでいたその指先が離れるその瞬間の小夜の表情が脳裏に焼き付いて離れない。久しく見ることのなかった不安な瞳は迷子の幼子のように稚い。どうして一人で行かせてしまったのか…。片時も離れず傍に付いてやればよかったのに…。後悔ばかりが先に立つ。
― 小夜…。あなたに何かあったら…私は…私は。
しばらくして、コツコツと軽快な靴音が廊下に響いた。
「ハジ、検査が終わったの。ちょっとこっちに来て、小夜と二人で結果を聞いてくれるかしら?」
廊下の向こうから姿を現したジュリアの表情はなぜか明るいものだった。そんなジュリアに僅かながら苛立ちを感じつつも、ハジは居てもたってもいられず足早に駆け寄った。
「ジュリア、小夜はあ、あんな青白い顔をして…一体どこが悪いというのですか?」
普段であればハジのほうからジュリアに話しかけてくることなど滅多にない上、心配に押し潰されそうなハジの顔は、長い付き合いのジュリアでさえ初めて見た。
ハジが小夜を抱えてジュリアの病院に駆け込んできたのは、ほんの1時間ほど前のことだ。ただでさえ白皙のハジは、まるで自分のほうが病人のような青白い顔をしていた。そして今、青白い顔に加え、強張った唇からは血の気が消えている。
― とりあえず、ハジを落ち着かせないと…。そっちのほうが大仕事だわ。
とジュリアは、やれやれといった風に独り呟いた。
「ハジ、小夜は大丈夫よ。そんなに心配しないで。あなたのほうが病気になったみたいに真っ青よ。本当に大丈夫だから、落ちついてちょうだい。…あのね、私は医者よ。患者のことで嘘なんか言わないわ。だから、さあ、そんなところに立ってないで、私の部屋で待ってて。」
ジュリアに無理やり背中を押されるように促され、院長室のドアを開ける。するとそこには、既に小夜がいた。
「ハジっ。」と、名前を呼ぶその声音が微かに震えていた。
“私がそばにいます。”と、優しく抱きしめてやりたかったが、ドアを開けるジュリアの気配を感じて躊躇った。
勧められるままゆっくとソファに腰を下ろしその面に不安をありありと浮かべた恋人たち。そんな二人の顔をしげしげと見比べて、ジュリアは“クスッ”と、小さく微笑んだ。
「まずはじめに、おめでとうと言わせて。」
唐突にジュリアは、言った。
「えっ?」
ハジと小夜は二人、どういうことなのか訳が分からず、互いの顔を見合わせた。
「小夜、あなたのお腹の中にね、繭があるの、2個。」
「………。」
「…もうホントに鈍いわねぇ…赤ちゃんができたのよ。あなたたちは、パパとママになるの。アンシェルの仮説は、やっぱり何の根拠もなかったってことね。それとも翼手の理さえ崩していくほど、あなたたちの愛の力は強力なのかしら。」
ここまで言われれば、さすがにどんなに鈍くてもジュリアの言葉の意味くらい容易く飲み込めるはずだ。
「…そっ、それ…ホント?ホントに…私のお腹に、ハジの赤ちゃんが…。う、嬉し…。…すごく、嬉しい。だって…ハジとの…に…赤ちゃん…できないって…諦めて…から…。」
そう、本当に諦めていた。始祖女王とその眷属であるシュバリエ。その特殊な生態故に二人の間に子供を授かることはないと…それだけはどうあっても変えられない事実なのだと納得していた。。それだけではない。自身の呪われた血の罪深さと、愛する子供たちをその手に抱くことすら叶わなかったディーヴァの無念さを想うと、自分が子供を望むなどあってはならないことのようにさえ思っていた。
でも自らにそう言い聞かせてみても、夜毎ハジに抱かれながら、心の奥底で密かに願い続けてきたのだ。ハジを愛すれば愛するほど、彼の子供が欲しいという願いは切実な痛みを伴って、いつしか祈りへと姿を変えた。
今よりも確かなハジとの絆が欲しい…。子供を授かることでその絆が生まれる…。
それは始祖翼手でもなければ翼手の女王としてでもなく、唯ハジを愛する一人の女としての望み。咲き誇る薔薇の小さな蕾のように可憐で慎ましやかな、悪戯に触れることを赦さない気高さを秘めた、ささやかな望み。
もとよりハジの愛を疑ったことなど一度としてない。長い生命の終わるその瞬間まで小夜のことを愛し慈しんでくれることは、火を見るより明らかなこと。それは分かっている。だからこそ、真摯で直向きなその想いに触れる度に願わずにはいられなかった。
ハジのためにしてあげられることは何か…と。私にしかできないことが…ただ一つだけある。
それは、ハジを幸せにすること。
その生い立ちを思えば、ハジは温かな家族の温もりなど知らずに暮らしてきたに違いない。あの幸せだった動物園のころでさえ、彼はあくまで小夜の従者であり続け、小夜とジョエルとは一線を画していた。
そんなハジに家族という名の温かさを伝えたい。その絆の温もりで冷たい身体を包んであげたい。私の幸せはいつの時もあなたと共にあるのだと伝えたい。
だからこそハジの血を引く子どもを産みたい、と思った。それがどんな愛の言葉よりも、尊い証だと信じて疑わなかった。
そして漸く今、祈りへと姿を変えた願いが現実のものとなった。今、この胸の希望の光と点すように、この身体に息づき始めた小さな一つの命。
喜びが口から零れると同時に、小夜の瞳から大粒の涙がポタポタと零れ落ちた。しばらくの間呆然としていたハジだったが、ふと我に返ると小夜の涙をそっと唇で受け、小夜の手を取るとその下腹に置き、その上にそっと自らの手を重ね合わせた。
「今日倒れたのはそのためよ。小夜は貧血を起こしているの。人間の場合でも、妊婦は少なからず貧血状態に陥りやすいものよ。まして翼手のあなたなら尚のこと。翼手は血の生き物といっても過言ではないのだから…。それと食事が摂れなくなったのは、悪阻のためよ。やたら眠くなるのも妊娠初期にはよく見られる症状よ。体が妊娠という状態に慣れるまで、しばらくは辛いかもしれないわね。でも心配することはないわ。さぁ、これでおめでとうの意味がわかったかしら?もう一度言うわよ。小夜、ハジ、おめでとう
!! 」
小夜は零れ落ちる涙をぬぐおうともせず、ハジの大きな手を握りしめ、もう片方の手で自分のおなかを優しく撫でながら、「ありがとうございます。」
そう言葉にするのが、やっとだった。
ハジは、ジュリアに深く頭を下げた。それはいつも言葉少なく滅多に感情を表に出さないハジが見せた感謝の意ではあったけれど、どことなくその表情は暗く固いものだった。いつもならそんなハジの様子に聡いはずの小夜でも、喜びで胸がいっぱいの今は、そんなハジの心に気づくはずもなかった。
「小夜、妊婦の心得、分かるかしら?」
「私、妊娠なんて自分には縁がないことだと思ってた。…だから何にもわからないんです。…ジュリアさん、教えてください。私、産みたい、ハジの赤ちゃん。」
「もちろんよ。妊娠出産の先輩として、翼手研究の第一人者として、そしてあなたたちの古くからの友人として、全面的にバックアップさせてもらうわ。安心しなさい。」
ジュリアの言葉は、小夜にとって何よりの祝福の言葉に聞こえた。
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その日は大事を取ってジュリアの病院で一夜を過ごした。小夜は、”大丈夫だよ。”といって聞かなかったが、珍しくハジが折れることがなかった。ハジの真剣な眼差しに、小夜のほうが根負けしてしまった。“どうか、身体をおいとい下さい。”
彼の言葉が、素直に嬉しかったから。
翌日、日が高く昇った頃、二人はジュリアの病院を後にした。小夜は、家に帰り着くとすぐにハジの胸に飛び込んで、恐る恐る胸の内を吐露した。
「翼手を滅ぼすために辛い旅をしてきた私に、翼手の赤ちゃんなんて何だかおかしいよね。…でも私、産みたい。ハジの赤ちゃんだから産みたいの。ねぇ、産んでもいい?」
こんなに必死に問いかけてくる小夜を前に、ハジは気持ちを偽ることは到底できそうになかった。長く続く翼手の時間を小夜と二人で生きるために、隠し事は禁忌なのだ。ふーっと一つ大きく息を吐いてゆっくりと言葉を選びながら、ハジは語った。
「正直、親に売られた経験を持つ私には、親子の情などよくわかりません。我が子を抱く自分の姿すら想像できないのです。でも貴女が強く望むことならば、どんなことでも叶えてあげたい、とも思うのです。本来は授かるはずのない命。私はその奇跡ごと貴女を抱きしめたい。小夜、…どうか…私の子供を…産んでください。」
その瞬間、小夜の顔は笑み崩れた。溢れる涙をぬぐうこともせず、ただまっすぐハジを見つめたまま。喜びは小さな命を守る決意となり力となり、それはまだ見ぬ我が子への愛情に繋がる。そして、より一層大きく膨らみ最愛の人へと向かう。
「ハジ、ありがとう…。」
紡ぎだされた言葉には、感謝と決意と愛が満ちていた。
「私たち、本当の家族になるんだね。」
「今まではハジに護られてばかりだったけど、私にも守るものができたのね。」
「ねぇ、ハジ、早く産まれてこないかな…」
喜びを抑えきれず呟く一つ一つの言葉をハジはただ黙って聞いていた。小夜の表情はもう、母の顔になっているようだ。“花も綻ぶ”とはこういった笑顔のことなのだろうと思い、つられてハジも口元を緩めた。
「…ハジ、ありがとう。ハジがずっと変わらず私のそばにいてくれたから…。私、…あなたに愛されて、とても幸せ…。」
ハジの胸に片頬を預け、小夜は潤んだ瞳でハジを見つめて囁いた。
実のところ未だハジの心には暗い闇が巣食っているままだった。本音を言えば、自分には小夜さえいてくれればそれでいい、と思う。幼い日々の記憶を辿ると、未だに憎悪と嫌悪と羞恥で胸が悪くなるほどだ。子供など…と思うのは己が幼き日々の傷がまだ癒えていない証に違いない。親に売られた子供。そんな自分が親になれるというのだろうか…。自然と眉間に皺が寄る。
しかし、子どもが宿っていると知った時の小夜の喜びは、ハジの想像をはるかに超えたものだった。
― ハジの赤ちゃんだから産みたい。
と、小夜はそう言ってくれた。小夜の躯の中で息づき始めた命。それは紛れもなく、小夜と自分が愛し合ったその証だ。それならば、こんな自分でも生まれてくる我が子を愛おしく思うことが…できるのかもしれない。
― 本当の家族。
なんと甘やかで、なんと優しい温かな響きに満ち溢れた言葉なのだろうか。
チェロのほかに何一つ持つものはない。独占欲の強さから小夜を自分のものだと口にすることはあるが、小夜はあくまでも愛を捧げるべき女神であり、護るべき主人なのだ。本気で自分のものと思ったことなどない。本当に自分のものはその昔小夜から贈られたチェロだけなのだ。そんな自分が、誰よりも愛しい小夜と家族になる。
ハジの子供が産みたい、とそう願ってくれた小夜の真意はそこにあったのだと、今初めて想いがそこに及ぶ。
― 貴女を護るつもりでいて、やはり私は貴女に護られていたのですね。あの日からずっと…。
幼いころの記憶のどこを探しても、家族の温かさなどその片鱗すら見つからない。それほどまでに孤独で荒んだ生活だったのだ、遠いあの日小夜に幼い心を救ってもらわなければ…。冬の海を思わせる凍てついた心は、あの日を境に穏やかな春の日差しを受けて、ゆっくりとその氷を溶かしていった。小夜とともに歩んだ時の流れは決して易しいものではなかったが、それでも小夜と共にあることは誇りであり喜びだった。小夜がいてくれたから、今の自分がある。手を伸ばせばあれほど焦がれた小夜の温もりに容易く触れられる。それは紛れもない事実としてハジの頑なな心を解してゆく。
生まれてくる我が子には、平穏でも温かな安らぎの中で生きて欲しい。自分の心の中にいつも小夜がいたように、生まれてくる我が子の支えになりたいと思う。ハジの心に父性という名の愛が新たに生まれた瞬間。
「これからも貴女を、そしてお腹の子供を護ります。小夜、貴女を愛しています。」
噛みしめるように告げた決意の言葉は、小夜の優しい口づけに吸い取られていった。